石坂浩二(59)さんと浅丘ルリ子(60)さんが熟年離婚したのは、去年の12月27日、そのわずか5日後に石坂浩二さんが37才の女生とスピード再婚、世間では、石坂さんを非難する声がたえないようです。週刊誌によると、もう14年もの間、女性は石坂さんのお母さんの介護をし、事実上の嫁さんの立場だったとか。私に言わせていただけるなら、この再婚はむしろ遅すぎたのではないかと思います。10年もの間、老人を介護する、これは大変な事です。した者でなければわからないことなのです。

実は、私、実の母親(当時85才)を自分の手で殺めました。弁解になりますが、介護の末、やむにやまれぬところにまで追い込まれてのことでした。

母の病気が悪くなったのは、その10年くらい前からでしょうか、リウマチが悪化し、喘息も併発、車椅子の生活となり、医者からはもうなおらないといわれておりました。母親は入退院を繰り返すようになりました。そのころ、母親と同居していた独身の姉(元地方公務員、当時65才)がしきりに「しんどい」と愚痴をもらすようになりました。私は、今の主人と結婚していましたが、実家は近くでしたから、入退院の付き添いは姉と交互で見ていました。父親は私が幼いころ、すでに亡くなっていました。

母親の入院中、足と腰の痛みがひどいといえば、ナースが飛んできて薬をくれたり、点滴をしてくれたり、湿布を張ってくれたりして、とても助かるのですが、母親の喘息の持病もあり、夜中、鼾(いびき)がとてもひどいんです。で同室の人から嫌がられましてねえ、「夜中、眠れない」といわれて。でも連れてかえれば、足腰の激痛にあえぐ母親の姿を見るだけです。個室に入れるだけのゆとりもない。

付き添い看護は姉と交代でしていましたが、姉は気性の激しい人で、母親の看病をしていても、何かと衝突していました。その日も母親がなにげなしに「担当の看護婦さんはまだかしら」と待ち望むような口調で言ったのを聞きとがめ、「何を言うのよ、私がこれだけしているのに」といって病室で母親を怒鳴り散らして、物を投げたりしたんですね。病人になんてひどいことをと思われるでしょうが、姉も65才という年齢で介護ですから疲れていたんです。持病の糖尿病を抱えていましたし、病人が病人を介護するという感じででもあったんです。しかし、婦長さんから、「家族にこんなことされては困る」とひどくお叱りを受け、姉はふてくされて、実家へ帰りました。病室の人たちからは、母の鼾(いびき)がひどいし、出ていってほしいといわれる。母親は、激しい気性の姉のいる家へは帰りたくないという。「なら、うちへ来て」と私がいったのが悲劇の始まりでした。

同居してはじめて、姉の今までの苦労が分かりました。夜中、寝ないで尿を取ったり、水をあげたり、痛むと訴える足腰をさすってあげたり、通院の日は、自分で抱えてタクシーにのせなければならない。親切な運転手さんなら手伝ってくれますが、皆が皆、親切な方とは限りません。母親は始終腰が痛いと訴えていましたが、私もひどい腰痛になりましたし、それに遺伝でしょう、私自身もリウマチで身体の節々に痛みを感じるようになっていました。

それでも、主人に手伝ってとはいえない。私は姑の世話をしたこともありませんし、自分の家のものを背負い込んでしまったという負い目がある。そのころはまだ主人も仕事を持っておりましたし。

母親の病気は日に日に悪化していきました。

夜中の喘息の発作や腰や足に走る激痛など、どうしても私の手にはおえない、とにかく入院させなければと、また新しい病院を探し出し、入院させました。「死にたい」「早く楽になりたい」が母親の口癖になりました。今の医学はおかしいですね。うわごとのように死にたいと言うものを全力をあげて生かせようとするのですから。

母親はついに排尿さえわからず、おむつをするようになりました。それからすっかりおかしくなってしまったのです。痴呆の症状が出始めたんです。来るべき時が来たと思いました。

痴呆の症状が出ているので、私が病院から帰宅しても、病院からの苦情がたえない。ベッドの柵に顔を突っ込んで動けなくなったとか、夜中になると大声をあげるので他の患者さんが眠れないとか。やむなく家に連れてかえり、母親を布団の上へ寝かせると、私自身くたびれ果てていたのでしょう。目の前のものがオレンジ色にみえるんです。身体中にリウマチの痛み、胸の動機(原文ママ)、息切れ、目まい、鬱症状がどっときて、私自身が布団の中へ倒れ込みました。その時、母親がすっと正気になり、静かな声で、「もう、私らあかんね」といったのです。私は、母親の目を見ました。「もういこう」母親がそういった時、私は母親の首に手をかけていました。二人で死のう。私ひとりで母親の介護を引き受けてから5年後のことでした。

拘置所に入っている私の耳に、姉が自殺したとの知らせが舞い込みました。なぜ?いっそ、私を非難してくれたらよかったものを。拘置所の小さな窓から青いそらが見えます。小鳥が勢いよく舞い上がるのが見えます。母親を殺め、姉を失い、逮捕後「死にたい」とうわ言のように言い続けた私はまだ生き長らえています。これが業というのでしょうか。

裁判では、懲役3年、執行猶予5年の恩情判決を言い渡されました。犯行当時、心身耗弱の状態であったこと、私の知人たちが5千もの減刑を求める嘆願書を集めてくれたことがこの恩情判決へとつながったのです。といって、私自身の罪が消えたわけではありません。

昨今、老人介護のことが問題になっています。そんな悲惨な結末を迎えた私に、今更何の意見も言えた義理ではありませんが、ひとこといわせて頂けるなり、介護というのは、平和な家庭という土台があって、その上で皆が協力し合って成り立つものだと思います。私のように何もかも自分一人で抱え込んでは共倒れになります。死にたいと願う者には安楽死も認めて欲しいものです。もう今更何を言っても弁解になりますが、お恥ずかしいことです。

こんな罪深い私ですが、寂聴様、ひとつだけお伺いしたいのです。天国へ旅立った母親と地獄へ落ちる私と、果たしてあの世で会うことができるのでしょうか。どうぞお聞かせ下さい。

奈良県 ×××××× (仮名)

 

涙なくしては読めない正直な告白に感動しました。どんなにお辛かったでしょう。あの世で、お母さまはあなたに感謝していらっしゃると信じます。元気を出して余生を楽しんで下さい。

(寂聴)