一隅を照らす 参考:「至知」2001年11月号 今最澄から何を学ぶべきか(栗田勇 百瀬明治)   (至知出版社03-3409-5632)

本山に大学のころ行ったときに鈴木先生から、「一隅を照らすもの、これ即ち国宝なり」という言葉を聞きました。


 この言葉は、最澄が当時の奈良の僧綱支配から脱し、比叡山に独立した大乗戒壇の建立を願って桓武天皇に上程した「山家学生式」の中に出てくる言葉です。

「国宝とは何ものぞ。宝とは道心なり。道心あるの人を名づけて、国宝となす。ゆえに古人いわく、径寸十枚、これ国宝にあらず。一隅を照らす、これ即ち国宝なり」とあります。

自分の周りのほんの少しの範囲だけでも、明るく照らすことが、出来ればすばらしいと思います。

また、「宝とは、道心なり。道心あるの人を名づけて、国宝となす。」の一節にある、道心を持ち続けて生きて行くことが大事だと思います。
では、道心とはなんでしょうか?それを考えることを始めるのがスタートだと思います。
そして、その道心に外れずに、日々の生活を送ることが大事です。

最澄が言う道心は、仏道に志すことです。道元は「正法眼蔵」で「仏道をならうというは、自己をならう也。自己をならうというは、自己をわするるなり」と述べます。
自己の内面を見つめ、己を徹底して放棄する、そうした心を重んじ、それを国宝と言ったのでしょう。


少林寺拳法の根本は自己確立に根ざした、忘己利他であると思います。

そのことを、「半ばは自分の幸せを、半ばは他人の幸せを」の言葉で表しています。
その意味でこの言葉は少林寺の目指すところに通じると思います。


また、「忘己利他」も「山家学生式」の中の言葉で、「悪事を己に向へ、好事を他に与へ、己を忘れて他を利するは慈悲の極みなり」とあります。

「忘己利他は慈悲の極みなり」も有名な言葉です。
この言葉は、1981年に行われた宗教サミットでヨハネ。パウロU世が引用しました。キリスト教も仏教(天台宗)も同じであり、最澄を評価されました。


「照于一隅」は実際には原文で「照一隅」と書かれていることなどから、学者の間では、「照一隅」、即ち「国を守る力が里四方に届いて、誰も侵すものがないから国宝といえるのだ」とする説が正しいとする結論が出ています。

自分の持ち場をしっかり守って生きぬくということが大事だという意味で考えると、これもまた、少林寺拳法の基本と合い通じるものがあると思います。