初心不可忘これは多分2000年3月に書いた文書です。 最後に後藤のコメント

 

私は観世の仕舞い(能の舞いの一部を装束無し・謡だけで舞う)、を習っています。 今日、「観世会100周年 初心不可忘600年記念能楽鑑賞」に行ってきました。 道を究めることに共通点があるとおもい以下に記します。(内は私のコメント)

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3/21日に観世会の100周年の記念・世阿弥から600周年の記念鑑賞会を鑑て参りました。 この中で、関根祥六先生のお話があり、感じるところがありましたので、まとめておきます。
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・初心忘るべからず(初心不可忘)という言葉は、良く使われるが、これは世阿弥が言ったことで「風姿花伝」 「花鏡」に言われたもの。それが一般に広まったものです。
・初心を忘れると初心に返ってしまう(初心の時の状態に戻ってしまうので、初心が重要です。)
・初心を忘れると芸が後戻りする事に気が付かなくなってしまう。
・私が(関根祥六先生が)若い頃いわれたが、(芸の道は)坂道を大きな荷車をもってあがる様なものだ。

・現状維持で止まるだけでも大変なのだ。一歩出るのは、大変なことだ。


・初心不可忘には3つの付帯語がある。
・ひとつは是非の初心忘るべからず
・もうひとつは時・時の初心忘るべからず
・最後は老後の初心忘るべからず


・是非の初心忘るべからずとは 初心の非をを後進の是にせよ。(若い頃の未熟さを恐れてはいけないが、繰り返してはいけない) 難しく言うと、前々の非を後々の是にせよ。(?) 簡単に言うと失敗は成功の元
・時・時の初心忘るべからずとは 結婚式や入社式で「その時の喜びを思い出して、頑張れ」というがそれも一つの解釈ですが(違うと思う※後藤注) ”ときどき”でなく、”とき・とき”で、その時、その時でして、その時その時が初めての体験で、そこに対しての初心
・そこに向かって精進せよ
・3番目が老後の初心忘るべからず 初心の時代から老後の時代まで長い間いろいろな演目をさせていただく、体験をさせていただく、経験をさせていただく、その時にもなお且つ 初心

・初心初心と最後まで言われている。 一生初心を忘れなければいいのだ。 そして、初心初心と思って精進しているうちに、世阿弥さんいわく「命には終わりあり、能には果てあるべからず」と言うようにどうだろう
・ああだろうと 思っているうちに自分の命が終わってしまう。大体芸というのはそういうもので、行き着くところはない。
・「初心忘るれば、初心子孫に伝わるべからず」という。初心を忘れたら子孫に伝えることもできない。

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能には型が重要で、初心者は、”型を付ける”ことをならう。(玄人はまた違うようだが) その型の組み合わせが、舞いとなる。 600年の間、芸・技を伝承している、その方法論は、日本文化の中でも秀逸で、評価に値すると思う。 私の鑑能のなかでの感想は、ちょっとした動きの中で場面・表情・情念がすばらしく早く変わることに感動したこと。 それは、人間の感性に訴える所作で、普遍のものであろうことを感じられたことです。 今日の観世(清和)宗家の舞囃子(囃子がついた仕舞い)で2度ほど、彼が飛び上がった時、自分も飛びあがった感じがして、体がふわっと(びくっと) してしまい、観るものの体や心を芸が支配することがあるのだと感じた。
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コメント2
死ぬ瞬間に「あと2時間、生きる時間を売ってあげる」と言われたら、全財産を投げ出しても、2時間を買うと思う。
いまある2時間をその時買う2時間だと思うと、大事に思えてきて、無駄に出来ない。
もしかしたら、それが初心かも。

だけど、ミヒャエル・エンデ的には時間に支配されていることになるのだろうか?
流れに身を任せ、自然を感じることが大事だとも思う.

少林寺拳法(金剛禅)では矛盾する概念による調和により世界が成り立っていると考える。
その点では、両極を見ながら、存在を探ると言うところか。